ポップカルチャーを学ぶには | 王様の耳はロバの耳

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ボランティアが忙しくて寝る暇がありません。


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【あらすじ】

JAPA(日本ポップカルチャー委員会)
http://www.ppp.am/
に届いた、「ポップカルチャーを輸出する仕事につきたい大学1年生」という質問者に対するML上のディスカッション。

自分の初回の意見としては以下のような感じ。


・常に「世界から見た日本の特異性」に注目する
・地球の裏では異なる、世の中の「当たり前」を探す
…というのが日々の生活においては特に重要だと思います。

例えば、いまが大航海時代だと想像してみてください。
「猫」や「胡椒」が地球の裏では「価値のあるもの」であるとわかるためには、
何が必要でしょうか?


スキルについては
・英語
 米語だけでなく、SIGGRAPH国際会議のボランティアなどに参加して
 いろんな世界の学生と「自分の話」が出来るようになるとまずは良いと思います。
・輸出関連、著作権等の法規
・「日本人のステレオタイプ」を払拭する人柄
・笑顔と折衝能力
・コンピュータ技術全般
…といったあたりが重要なのではないかと思います。


といった意見を出してみたのだが、意外と違う感じの意見が。
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> ポップカルチャーってアカデミックで大変なんですねぇ.
> どうでもいいのかと思ってました.

まあそんなに偉そうなもんじゃないと思いますけどね。
飯のタネにしようというなら、仮説にもとづく計算は必要だと感じますが。

明和電機の土佐社長に
パチモクを叩く時の「間」は、
世界各国どこの講演でも同じように受けるものなのか?
…と聞いたことがありますが、
「日本人の"間"を信じて打つ、これが大事」
というような回答を頂きました。

音楽なのか、芸なのか、メディアアートなのか、
はたまたデバイスアートなのか…は私にとっては、
「どうでもいいこと」なんですが、
「パチモクで『笑いを取るための間』が世界共通であること」は、
私が世界各国で発表するための
言語非依存なインタラクティブ作品を開発するときの
コンピュータの反応速度を決定する時など、
かなり役に立っている理論でもあります。

同じようなことは
映画やアニメーションの編集さんやレイアウトさんでもいえると思います。
(アニメーションにおける「溜め動作」の理論など)


まあ国際関係学科の1年生がこういう学問を学ぶ機会はないと思いますし、
ポップカルチャーを生み出す側に立つのか、消費する側に立つのか、
はたまた研究する側に立つのかでも違うでしょうし。


最初の質問者のメールを何度も何度も読み返してみたのですが、
やはり「ポップカルチャー」もしくは「文化」そのものに対する
独自の研究や深い認識が必要に思えてなりません。

マンガやアニメ、J-POPもポップカルチャーですが、
単に「商業芸術」ともいえますし、
たとえば、変な例では
大学生が居酒屋でやる「一気コール」だって
ポップカルチャーと呼べるかもしれません。
「若者文化」であり「風俗」とも呼べるわけです。
いや、世の中、「文化」と名の付けるもの以下のもののほうが多いです。

一方、「pop」であるためには、
「軽くて、ポピュラーで、洒落てないと」
という不文律があると思います。

ポピュラーをとるためには、資本主義の国では商業と密接に関わるべきですし、
「軽さと洒落」をとるためには、「重さと泥臭さ」をどうにかしないといけません。

つまり、ポピュラリティを除けば
どのへんを「軽く」して、
どのへんを「洒落る」のか、がミソといえるでしょう。

そこで、いろいろ研究していくと、日本人のポップカルチャーの多くは、
「『どうでもよいこと』に執拗に『高クオリティ』を求める」点が見受けられます。
(それは全く持ってどうでもよくない「文化そのもの」でもあるわけですが)

マンガやゲームを作っている人たちには、
頭の中にそのミソを生み出す回路はできていても、
「どうしてそういう構造になったのか」を説明できるひとが意外と少ないので、
ポップカルチャーの表層だけを追っていくと、
単なる消費者の一角というか、例えて言えば、
「ワインの味と値段はわかるし輸出もできるけど、
葡萄を見ても、どうしてそれがワインになったのか想像も付かない人」
…が出来上がっていくのだとおもいます。

まあそれというのも、
『日本の訳マンガに心を奪われ、
それが日本語→英語→フランス語なのか、
日本語→フランス語の訳なのかも理解できて、
「やっぱり日本語を学ばねば」と決心し
なぜか柔道や空手を学んでしまう』
というフランス人学生がたくさんいるので気がついたことなんですが。


ちなみに「ポピュラリティ=商業的な成功」、というのも
ちょっとした幻想になりつつあるようにも感じています。

オープンソースやP2P、Blogのおかげで、
「『無料の利益』を生むボランティア」にスコレーを費やすことが、
文化的快楽そのもの、という認識もないことはないです。


ああ、また長くなってしまいました。


※スコレー(schole、スコーレとも書く)
 古代ギリシャ語で、「個人が自由にまた主体的に使うことを許された時間」と言う意味。ラテン語の学者(スカラー, scholer)英語のスクール(school)の語源。いわば文化創造的に充実した余暇のこと。

 つまり学者は源語的には「閑人」であるともいえるが、西洋源流思想の哲人アリストテレスは幸福とは何かを問う"幸福論"のなかで、スコレーの自給的本質、経済的、時間的非束縛、徳、教育の必要性などを説いている。

■「幸福はスコレーのうちにあると思われる」(ニコマコス倫理学)


 個人的な見解であるが、これはドイツ古典主義フードリッヒ・フォン・シラーの遊びや美に対する思想にも通じるところがある。

■「人は遊びの中で完全に人である」 (人間の美的教育について)