「滑り台の順番」は守る必要があるのかどうか-社会性の獲得過程における父親の役割に関する考察と補足 | 王様の耳はロバの耳

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ゆがんだかがくしゃのたのしいにっきだよ

ご大層なタイトルがついてますが、元ネタはこちら(mixi内) です。


以下、自分の投稿とまとめの一部引用です。


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私自身はフランスに住んでいて、そこで日本人の息子を育てているわけなのですが、フランスの教育にはここ十数年「戦わない・争わない・比較しない」という習慣が身についているようで、幼稚園に試験もありませんし、かけっこや競争のようなものもありません。

先を争って滑り台をすべるとか、整列しないほうが悪い、というのはかなり土地に依存した状況なのではないかと感じます。
先日、息子と日本に帰った際、都会のデパートの玩具店にある滑り台であそばせてみましたが、日本の子供の遊ぶペースは明らかにフランスの子供よりも高速です。急ぎすぎな気がします。
あまりに周囲が急ぎすぎるので、階段を上る過程を楽しんだり、という状況ではなくなってしまいます。

冷静に見ると、一つの滑り台に対する子供の数が違いすぎるようにも思います。安全に快適に遊ぶためには、1つの滑り台に対して、大きさと年齢にもよりますがせいぜい、2-3組の子供が適正なのではないかと思います。

さて規則についてですが、フランスの教育環境にも規則はたくさんあります。親がわたされる連絡ノートには、それこそ日本の幼稚園よりも細かい規則がたくさん書かれています。またそれを必ずしも厳密に守らない親もたくさんいます。

たとえば、幼稚園の前の道路は「そもそも車両進入禁止なので事故があっても保険は適用されない」という記述があります。
しかし、便宜上、多くの親御さんが学校の前まで車で乗り付けてきます。朝の忙しい時期で、その後会社に行く人も多いわけですから、かなりあわてていて危険です。うちは車がないので歩いて通わせているわけですが、息子は友達の姿など見えると駆け出しますので、ちょっと緊張感があります。

だからといって守らない親を指差して「あいつは悪いやつだ」と教えてもしょうがないです。
クラスに入ればそれは息子の友達の親ですし、運転者からすれば、自己責任においてルールを犯しているので、逆に安全性については気を使っているという主張です。またそもそも細かい規則をキリキリ守るというストレスを指摘されます。似たようなことは「歩行者が信号を守るか」ということにも挙げられます。歩行者が赤信号でも普通に道路を横断する国では、車は「あの歩行者は渡るかもしれない」とおもって運転するわけです。

まあ、こういうことはお国柄とか、その土地の環境によってずいぶん違うものだということを言いたいのです。

余談ですが、日本の男の子は仮面ライダーやウルトラマンのおかげか、時に勧善懲悪の倫理観が過ぎるように感じます。だからといって悪いことをする人が減るわけでもないのがふしぎなところですが。

一生同じ土地、さらに同じような人々に囲まれて生きるのであれば、特に問題はないと思いますが、厳密なルールの尊守を前提とする社会と、そうではない社会を行き来するような家庭は日本国内でもよくあるとおもいます(例えば休暇のときは地方の実家を訪問するとか)。

社会性を身につけていく過程で、逆に「順番を守れない」など、異文化の風習を目の当たりにして「私と違う」「私の親と違う」といって、ひとりストレスをかみ締めている子供を見かけると、ちょっとかわいそうになることがあります。

真面目で素直な子供が小学校の2年生ぐらいから突然、「友達と仲良く遊ぶ」という簡単なルールだけで、親が知らないうちに、グイグイと悪いことの魅力に引き込まれていく様なども見かけることがあります。

ルールを守ることは大切ですし、家庭内でしか出来ない教育も多々あります。
しかし、「自分の与えられた常識が、すべての常識ではない」ということも、知っていなければ、効率よく快適に遊ぶことは出来ても、本当に一緒に遊ぶ友達のことを理解したことにはならないでしょう。
ちなみにこれは大人の社会でも全く同じことがいえるでしょう。社会性を身につけるとは、必ずしも、共同で軍隊のような規律正しい行動が行なえること、だけではないはずです。パパ・ママ・わたし、以外のコミュニケーションの関係が、さまざまな人やクラスに繋がっていく理解でもあるので、「滑り台で遊ぶ子供は全部自分と同じ」と思いこむのも、それに裏切られながら社会の多様性を学ぶのも、また学習の過程なのではないかと思います。

まあ特殊な例かもしれませんが、付記させていただきました。


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実際にどのような学習をしていくのか、楽しみであり不安でもありますが、

こうやってまとめて書いておくことは大事でしょうねえ。